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11月3日午後3時30分、巨星は落ちた。 私は1952年の5月2日に17年ぶりに再度フランスの地を踏んだ。 羽田から空路ローマで乗換えて南仏のニースへ直行した。 というのは、私の再渡仏について当時占領下の日本から出発の 許可もフランスへの入国許可も面倒だったのを、ニースに住む 恩師マチス先生からフランスのミッションあての懇請により万事は スムーズに運び、案外早く出発もできたし先生が老齢と1935年来の 宿病で衰えてもおり、しばしば危険も伝えられていたので気が気で なく生前に一目会いたかった。・・・・・ この文はアンリ・マチスが亡くなった時、青山義雄がフランスから 日本の新聞へ投稿した、 「マチスの思い出 =光を失ったニースの太陽=」 と題された冒頭の部分である。マチスが亡くなったのは、この文が掲載された年の1954年(昭和29年)の11月3日で、マチスが亡くなる2年前の1952年に溯り、青山義雄が17年ぶりにフランスへ再渡仏した時の回想からはじまっている。 この投稿文は40日後の1954年12月13日付の新聞であることから、 青山義雄はマチスの死に際し、最初にペンを執った文ではないかと思われる。 この文の最後ではマチス師の死を悲しみ、 ボオドレールの詩が思い浮かんだと結んでいる。 青山義雄は、その才能をマチスのよって発見され、認められ、そして開花した唯一の画家である。 その青山義雄も42年後の1996年10月9日亡くなった。 享年102歳であった。またしてもニースの太陽は光を失ったのである。 なぜなら青山義雄はマチス亡き後、南仏のニースにすっかり住みついて制作に没頭していたからである。 2ページへ... ![]() |
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